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「わたしは弱い」を「だからこそ強い」に変えるアトリエ。

「ずっと抱きしめて欲しかった」大人になってから両親とハグをする理由

 

両親に「抱きしめて欲しい」
父親に「抱っこしてほしい」
母親に「頭をなでて欲しい」

そう思い始めたのは、成人をとうに過ぎ、30代を迎えた頃だった。

正確にいうと、「抱きしめて欲しい」という気持ちを「自覚」したのは。

 

両親に抱きしめてもらうに至ったきっかけ

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そもそものきっかけになったのは、私のメンタルの危機だった。

自分ではもうどうしようもできない状況に追い込まれて、今までに到底なったことのない自分になってしまっていた。

小さい子供のように暴れて、小さい子供のように大きな声を出して、赤ちゃんのように泣き喚いた。

 

ある日、そんな泣き喚く私のとなりに、いつもはドライな父が座って、肩をとんとんと叩いて、落ち着かせてくれた。

そのとき、ものすごくうれしい感情と、涙と共に、体中から声がした。

「ずっとこうしてほしかった」と。

 

愛されていたけど、愛してもらいたかった

内観や瞑想、心のことを学び始めて6年ほどになる。

気付いたときには、私はいつもどこか生きづらかった。

他の人間と噛み合わない感覚、社会と噛み合わない感覚、世界と噛み合わない感覚。

そして地球にいることが何となく違和感で、地球のシステム(お金を稼ぐとか、社会の一員として生きるとか)が、頭で理解は出来ても、「そういうものだ」と自分に落とし込むことが出来ないで、そのまま大人になっていった。

 

「この生きづらさはなんなんだろう」と思い、それをどうにかしたくて、心のことを学び、内観や瞑想を始めた。

そして、自分の内側を見つめ続けていくうちに、自分の中にいる小さな自分、いわゆる「インナーチャイルド」の悲しみを感じることが多くなっていった。

それは、両親に対しての「もっと愛してほしかった」「許して欲しかった」「さみしかった」「こわかった」「かなしかった」という感情たちだった。

 

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私は、世間でいう一般的な幸せな家庭に育ったと思う。少し違うところは、転勤族で幼稚園も小学校も中学校も「みなさん、はじめまして」から始まっていたりはしていたけども。

それでも、両親からは愛されていた、のだと思う。

実際、実家には整理しきれないほど家族の笑顔の写真はあるし、抱っこされていたり手を繋いでいる写真だってあった。

 

状況としては、愛されていたし、今も愛されている。

ただ、なぜかいつも不安で、満たされなくて、欠乏感があった。

どんなに愛情を与えられていても、「愛されているという実感」が乏しかったんじゃないかと、今になってみて思うのだ。

 

抱きしめて欲しいの根っこには、「愛されたい」があった

あるとき、心理セラピーの一環で、子供の頃の家族の姿で印象的な風景を思い出し、絵に描いてみたことがあった。

父は会社に行こうと玄関を出ようとしている。母は台所で料理を作っている。そして子供の私はその二人の様子を、部屋の少し遠くの方から眺めている、という風景だった。

 

毎日仕事に忙しく、平日は朝早くに出勤し、私が寝た後に帰ってくる父。

結婚後すぐに引っ越し、すぐに出産、子育て、という目まぐるしい変化に対応していく母。

小さい私は、ふたりの親の姿を、どんな気持ちで見ていたのだろう。

 

たとえば、虐待だとか、機能不全家族とか、そういう形では一切なくとも。

世間から見ても、自分から見ても、「幸せな家族」であったとしても。

「私は愛されていた」と、たとえ思えていたとしても。

それでも「もっと両親に愛されたい」「もっと愛してほしい」「愛してほしかった」と思うことは、しばしばよくあることなのだそうだ。

 

不安でたまらなくて泣きじゃくっているとき、肩をとんとんとしてもらって安心した自分。

「ずっとこうしてほしかった」と思った自分は、それをずっと望んでいた、子供の自分だったのだ。

 

「愛されているんだ」という「安心感」が欲しかった

父もまた私のように、「愛されているという実感」をよく知らなかったのかもしれない。

だからこそ、「愛情の示し方」も、よくわからなかったのかもしれない。

 

仕事も、勉学も、父はとても優秀だった。

優秀であること、よく出来た自分であること、お金を稼げる自分であること、地位のある自分であること。

それらを持つことが大人や周りに自分を認められるということなのだ、と思っていたのではと、父の子供なりに感じていた。

そして、私になにかいいことがあったときは、物を買ってくれた。

不器用で頑固な団塊世代よろしくな性格だったからか、なおさら「ものを与えること」で、愛情を示してくれようとしていたのかもしれない。

 

でも、子供の私が一番に欲しかったのは、「もの」ではなかったんだと思う。

「愛されているんだ」という「安心感」が欲しかったんだ。

 

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「おとうさんが、肩をとんとんしてくれた」

ただそれだけが、ものすごく、ものすごく、嬉しかった。

そこで、30代になってやっと、私は父の子供だったんだと思えた気がした。

 

そして、「抱きしめてほしかった」「頭をなでてほしかった」

そんな想いが抱かれていたことにも初めて気が付いたのだ。

 

子供のときの「こわい」を今も引きずっている大人

大人になった今では、子供のころに感じていたあれこれを鮮明に思い出すことは難しい。

でも、当時感じてきた様々な感情は、たくさんの蓋をされて、心の奥の奥に、大人になった今でも、そのままの形でずっとため込まれている。

 

「見捨てられたらどうしよう」
「許されなかったらどうしよう」
「嫌われたらどうしよう」
そんなことになったら、「死んでしまう」

親に見捨てられる恐怖というのは、子供にとって、「生きるか死ぬか」くらいの脅威がある。

たとえ一般的に幸せな家庭であったとしても、全くその恐怖を感じない、ということはないのだ。

 

親に悪気がなかったとしても。子供の思い込みや勘違いだったとしても。

固まる前のコンクリートに足跡が付いて、そのまま固まってしまうように。

子供の頃に感じた「こわい」という感情は、大人になってもそのまま残っている。

そしてそれが、大人になってから生きづらさとして、人生に反映されもしてしまう。

 

子供だったことを、大人になったときには忘れてしまう。

もう30代だ。すっかり自分は大人なのだと思っていた。だけども、それは少し違っていた。

 

今の私は、子供の頃の「こわい」を今も引きずっている大人なのだと気づいたのだ。

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過去を悲しむことは、自分を苦しめること

でも、少なくとも私個人としては、両親を責め立てる気持ちは無くって。

確かに、生きづらさの原因が少なくとも親に関係していると知ったときは、怒りや悲しみが湧いて止まらなくて、どんどんと過去に飲み込まれていった。

「過去のあれが原因だ」「あのときこうされたことが悲しかった」そう両親に伝えたり、感情が爆発したこともあった。

 

そしてあるとき、それを続けていても何も解決しないのだと気づいた。

過去を悲しんでいる今の私は、ただただ、「過去」しか見ていなかった。

 

つまりは、悲しかった過去をずっと追体験し続けている、ということ。

過去を悲しむことで、自分を苦しめ続けている。

「こわい」を抱えている小さな自分を、延々と悲しい過去に居続けさせてしまっているのだと気づいた。

 

だからこそ、この自分の内側にいる小さな自分の願いを、今からでも叶えたい、と思うようになった。

 

子供の自分の願いを、大人の自分が叶える

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小さい頃は「自覚」できなかった沢山のことが、大人になって、自分と向き合って、初めて「自覚」することができた今だからこそ。

「自分の望み」を叶えに行ってあげることが、子供の頃の自分にしてあげられることなのではないだろうか。

 

そうして、子供の頃からの「ずっと抱きしめて欲しかった」を叶えることに決めた。

そして多分、大人になって両親とハグをすることって、小さい頃からの習慣、とか、それなりに経験がないとハードルが高いことだと思う。

そのとおり。ハードル、最初はすごく高かった。

その為に取り組んだのが内観だった。

 

ただ、私のやっている内観法は少し特殊で、いわゆる感情の解放系とも少し違っている。

わかりやすく言うと、「自分にくっついている重いもの、不安なもの、こわいものから、まるっと出る」というもの。

この方法をやり込んでいった先で、めちゃめちゃ大きなハードルだと思っていた「両親に抱きしめてもらう」を、無事に叶えることが出来たのだった。

(↑この内観法は、今後提供できるようにしていくつもり)

 

ずっと抱きしめて欲しかった両親に抱きしめてもらった結果

「抱きしめてもらう」ことは、なんてことのないものだった。

拍子抜けするくらい、すぐに受け入れてもらえた。

この「受け入れてもらえたこと」が、まず嬉しかった。

抱きしめてもらっている数十秒、「なんでこんななんてことのないことが、ずっと出来なかったんだろう」と思うと同時に、「やっとここまでこれた」という気持ちが湧いていた。

 

そして、自然と涙が出ていた。

言葉では表せられない何かが、涙になって流れていた。

 

大人になって両親とハグをする理由

子供は、自然と親に抱っこをせがむ。

その理由は、抱っこをして欲しいから、ただそれだけなのだ。

 

安心感を得たいとか、戻ってこられる場所を再確認したいとか、スキンシップによる精神的な安定を得たいとか、そんな小難しいことはわざわざ考えてもいない。

 

抱っこしてもらいたいから、抱っこしてもらおうとする。

そんなシンプルなことなのに、いつの間にかそれができなくなってしまうのは、大人になるにつれて、いろいろなしがらみを知ったからこそ、仕方のないことなのかもしれない。

 

じゃあ、いま自分が、無垢で何もしがらみのない子供だったとしたら。

私が両親とハグをする理由は、もしいま自分が小さい子供だったら、本当は何がしたいか。それを選択しているから。ただそれだけなのだ。

 

今でも、ふらっと両親とハグをする。

ふわっとした安心感が身体の中にひろがる。

満足したら、ふらっと離れる。

そして、いつもの大人の自分に戻っていく。

 

私たちはどんなに大人になっても、いつでも子供に戻ることができる。

子供に戻って、子供の自分をやりなおすことが出来る。

 

私は幸運にも、その機会を与えられている今だからこそ。

大人の私は、子供の私を今一度、やり直しているような気がしている。

 

大人になると、どうしても「親に何かをしてあげられるように」なろうとするのかもしれない。

それはとても素晴らしいことだから、それを否定するつもりもないし、そんな大人になれたらいいなぁとも思う。

 

でももし、親に「こんなことをして欲しかった」というものが自分にあって、もし、それが今でもやろうと思えば出来る状態であるのなら。

大切な今のこの時間に、できるならばそれを叶えてあげて欲しいと思う。

 

それはきっと、あなた自身の望みでもあるし、そして、あなたの親自身の望みでもあるのだとも思うからだ。

「あなたに、幸せであって欲しい」という。

 

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