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「愛し」「美し」を「かなし」と読む、別れのかなしみの本当の姿とは。

 

「かなしみ」は「悲しみ」と書き、「哀しみ」とも書く。

そして「愛しみ」や「美しみ」は、「かなしみ」と読む。

 

手放そうとした瞬間、その愛しさに気がつく。

離れていった事実を前にして、その暖かい重みに気がつく。

ここにはもう存在しないと思えば思うほど、その存在を色濃く感じる。



「存在していた場所」からそれが離れていったとき。

私たちは確かにそこに、愛しみ(かなしみ)を感じている。

 

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出会いと別れによって生まれるさまざまなおもいを経験することは、おそらくひとの一生にわたるテーマだ。

出会い、そして別れの先に、私たちはかなしみがあることを知っている。

 

そしてかなしみには、「悲しみ」「哀しみ」だけに留まらない、更なる本当の姿が存在しているとわたしは思う。

 

それぞれの別れのかたち

心躍る出会いが生まれると、必ず別れが生まれることを私たちは知っている。

 

人や生き物との出会いと別れ。
ものとの出会いと別れ。
場所との出会いと別れ。

別れ方もさまざまにある。


人や生き物との別れは、関係性が離れることかもしれない。

死をもって離別することかもしれない。


ものとの別れは、新しいものと入れ替えて処分することかもしれない。

深く思い入れのあるものとの、胸を引き裂くような別れかもしれない。


場所との別れは、次なるステップへの足掛かりかもしれない。

生まれ育ち馴染んだ場所から、否応なく去らねばならないことかもしれない。


だからこそ、別れは怖い。

どんな別れのかたちにせよ、私たちは「かなしみ」を感じるから。

 

かなしみに逃げたいとき

「ここにけむる」というソロ作品をつくったことがある。

以前、田舎の祖父母の家が売られることになり、その手伝いにひと月ほど滞在した。

匂い、色、景色、ソファーの感触、幼い頃に自分の中に取り込んでいた大好きな感覚が蘇りながら、その家にあるものをひとつひとつ処分していった。


同行した母は自分の生まれ育った実家との別れを整理できないまま、止まると溢れてきそうな感情を抑えながら我武者羅に手を動かしていった。

祖母は「要らないものなんてなにもないよ」と背中を丸め嘆きながら、ひとつひとつの思い出を涙しながら語り、ごみ袋に入れていった。

祖父はもう半分魂が天国に行っていて、家のものが無くなっていく様子を眺めるだけだったけど、リビングのお気に入りの椅子に座り、お気に入りの帽子を優しくなでていた。


彼らのその姿は、どこか諦めつつも、奥底に燃える炎を宿していた。

口に出すこともうまくできない、怒りとも悲しみとも別け切れない激情を抱えながら生きるさまは、立ち昇るけむりのようだった。

 

 

その滞在から一年後、祖父は亡くなった。

 

 

否応なく訪れる別れがある。
意図したものではない、強要される別れもある。

引き裂かれるようなかなしみを感じているとき、その存在の愛しさに押しつぶされそうになる。

その愛しさに浸って、現実から逃げようとすら思う。


何も解決しないことはわかってはいる。

わかってはいても、そのかなしみに逃げたいと思うときがひとにはある。

 

--

あした、ここを離れる
じきに、ここに居たことになる
いつか、ここは消えて無くなって 

あした、ここを離れる

懐かしんで 逃げたい
その時が 訪れるまで 
そしてまた 生まれるまで

--

自分が見てきたその景色をなんとか昇華したいと作品に込めた。

立ち昇るそのけむりの生きざまを、かたちにしたくて。


祖父の死に思ったよりもかなしみが襲わなかった。

それは、作品に込めたおもいがけむりとなって解けるような感覚になるまで、かなしみという炎を炊き続けられたからなのだと思う。


祖父にこの作品を見せることはできなかったけれど、このけむりは祖父の元にも届いてくれていると信じている。

 

かなしみを愛しみと読む。かなしみを美しみと読む。

昔のひとは、「悲し」「哀し」とともに、「愛し」「美し」も「かなし」と呼んだ。 

別れのかなしみはかなしみの意味と形だけに留まらず、その奥にある「愛しさ」「美しさ」を、私たちに映し出してくる。

この手の中に一度は掴んだ尊いものは、刹那の充足感とともに、かなしみをも包んでそこにある。



--

何かを大切に思い、愛することは
その存在との別れを知っているから。

別れがあるから、私たちはまた気が付くことができる。

その存在が愛しく、尊い、美しいものだったのだと。


--

 

「存在していた場所」からそれが離れていったとき。
私たちは確かにそこに、愛しみ(かなしみ)を感じている。

 

かなしみを通して愛の存在を知る。

そのことを昔の人は、深く深く感じ取り、あえて言葉の読み方に託したのかもしれない。

 

失うということは、「確かになる」ということ

祖父の死後、生前以上に祖父の存在を色濃く感じるようになった。

もう顔を合わせて話をすることもできない。身体に触れることもできない。


それでも、死という別れによって、どこか深い所での繋がりを感じるようになった。


ふとした瞬間にその存在がもう戻らないと思い出す。

思い出した瞬間、その存在と繋いできた過去の情景がありありと脳裏によみがえる。


そしてその情景を眺めるたびに、その存在が確かなものになっていく。

「愛しみ」の情感は、真に美しいものがすでに己のかたわらに存在していたことを告げ知らせる

若松英輔「種まく人」亜紀書房ーそれぞれのかなしみ,p63

 

かなしみを愛しみとして受け入れたとき。

そこには見えなくとも確かな存在が、すでに私たちの傍らに静かに寄り添ってくれていることを知るのだろう。

 

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