想いをなにかの形にしようと思うとき。
「自分にこれを形に出来る力があるんだろうか。」
「気持ちはあっても、どう周りに見られるかが怖くてたまらない。」
強い想いがあってもなぜだか先へ進めない、そんなときがあるかもしれない。
そんな「なぜだか先へ進めない」ときに試してほしいことがある。
とりあえず、自分の為だけにスタートを切ってみる
想いを形にしたいときって、自分の中に燃えるようなエネルギーが渦巻いている状態。
でもこの燃える炎のエネルギーは、時間がたったら小さくなったり、消えてしまうこともある。
心の奥底ではきっと、その燃えるようなエネルギーをどうにか形にしたい。
この身体の奥からの叫びを、想いを、形にしたいと願っている。
だから、生の、熱い炎のままに想いを形にしたいのなら。
とりあえずやって、やって、やってみる。
わき目もふらずにとりあえず動いてみる。
やって、やって、やって。
とりあえず、それだけを、してみる。
どんな形になったっていい。思ってた形にならなくたっていい。
その瞬間の「生のわたしの感覚」を「このわたしの為だけ」に形にする、そのためのスタートを切ってあげる。
どんなに熱い想いを持っていても、胸の中に秘めた見えない情報のままでは、悲しいことに何も変わらないこと、どこかできっとわかっているはず。
でもでも、形にするって怖くて、誰かに見られるって怖くて。
自分の想いを目に見えるものにするときって、怖くて。
それでも。
自分の叫びって、自分にしか聞こえないから。
自分の想いって、自分でしか気づけないから。
自分の想いを形にすることって、自分ででしか出来ないことだから。
まずはやって。やってやってやってみる。
誰に見せなくてもいいんだ。
自分に献身的に、これでもかこれでもかと。
「自分の為だけに」動かす、動き出してみる。
そのやってみるを繰り返しているとき、ふと手が止まる時がある。
「あれ、自分って何を形にしようとしてたんだっけ。」と。
そして、その時の自分の想いが落ち着き、自分を突き動かす感覚が感じられなくなったとき。
ここでものすごく不安に襲われることがある。
「あれ、これからどうしていけばいいんだろう。」
「進まなければと思えば思うほど、なぜだか進まなくなってきた。」と。
このタイミングで、不意にその気持ちは「焦り」に変わっていくことがある。
動かねばと焦ったら、「待つ」
なんとか動き続けなければ、なにも変わらないような気がする。
でも、そういうときっていくら動いても、なんだかうまくいかなかったりするもので。
このとき、元々の「形にしたい想いで動いていた」自分が、「形にしなければいけないから動かざるを得ない」自分になってしまっている。
そこであえて、「待つ」ことをしてみる。
素直に待つことは出来ないかもしれない。
時には地団太を踏みながら、右往左往しながらになっても。
あえてそのままに、待つことをしてみる。
早くどうにかしなければと、何度も何度も思うかもしれない。
それでも、あえて形にしようとしていたものからふっと視線を外してみる。
注目して注力して見続けていた世界から、自分とその外側の世界へと視線と意識を向けてみる。
ぎゅっと固くなった部分をゆるめるように、視界を外側に広げ解いていく。
そして自分が「動かなきゃいけないから動こう」ではなく、「動きたいから動こう」と自然に思えるまで、ゆっくりと待つ。
その待っている時間の中でも、実は形にしようとしているものは刻一刻と変化している。
じっと動かない間でも、粛々とその想いは発酵を重ねていく。
そして気が付いたら、抱いている想いは今までと違った香りを放つことに気がついていく。
その香りの変化こそが、想いが形になっていく次のプロセス。
想いを形にすることは、形になることが到達地点だとは限らない。
葛藤を前に立ち止まり踏みしだいた足元が、想いの形に練りあがっていることもある。
そして、形にしようとする想いと形になった姿は、かならずしも一致しない。
一致しないからこそ不意に出来上がったその形は、自分の想定の範囲を大きく超えてくることがある。
以前、人に見せる作品をつくろうと、溢れる想いを形にしようとしていたとき。
作り始めたときとその最中、そして形にし終わったその過程の中で、自分自身に変化が起きていたことに気が付いた。
最初の情熱のままにやり続けることは、並大抵の力では難しい。
我武者羅に手を動かして、動かしたいけれど次第に動けなくなって。
途中から「動かねば」と頑張り続けていた自分がいたことに気が付いた。
気付いたら葛藤しているし、やり続けていても葛藤するし、葛藤し出したら動けなくなるし。
「あーもう!どうしたらいいんだー!」って、よくわかんなくなっちゃって。
そしてあるとき、いっそのこと自分が自然と動き出せるまで待ってみることにしたんだ。
今まで形にしようと動いていたときには出来なかった、小さなやりたかったことを「待つ」ことを口実にこの際やってみたり。
待っているときって、やり続けているとき以上に不安を感じる。
それでもあえて時間をかけて、その場から別の方へと目を向けてみる。
やらなきゃと焦る自分に気付いて、自然と歩みだせるまで待ってあげる。
待つ。
怖いけど、待つ。
この機会にと全く別のことに気を取られてみる。
そういえばと待つ。
今まで気が付かなかったけど、こんな風に見えるんだって別の景色に気が付く。
時間をかけて自分を解いていく。
待つ時間を何気なく過ごす。
そうして待っていたら、自分でも驚くほどに「ふっと」動き出せるタイミングが訪れた。
想いを「待つ」ことは、自然な自分に帰る時間
「今でしょ。」と動き出せた自分は、動かねばと頑張っていたときとは違いスムーズに進み始めた。
元々の「自然な自分」に戻ってきた感覚というか。
「形にしたい想い」と「形にする今の自分」が一致した感覚を感じたんだ。
動かなければと力づくで動かそうと思えば思うほど、自分は苦しく、疲弊していく。
そこであえて、意識を離し、少しずつの変化を待ち、時間の経過を過ごし、自分を受け入れていくことをする。
「自然な自分」は、自然であろうとすればするほど「不自然な自分」になっていく。
この「自然な自分」へ戻る時間こそ、「待つ」ことなんだと思うんだ。
最初の想いを形にすることにこんこんと力を注ぎ、次第に移り行く自分の変化に気づいていく。
そして一旦そこから離れて、身の周りの景色に新たな気づきを得ながら、ゆっくりとじっくりと変化を待ち、行方を見守っていく。
その自分を受け入れていく。
そしてまた、新たに動き始めていける自分を信じて。
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表現し、形にすることは、自分を生きていくことと一緒だなと思う。
形にすることは、楽しいことばかりではないかもしれない。
ときには苦悩のときを過ごし、迷路の中に迷い込んだりもする。
「ここにはもう出口なんかないんじゃないか。」
そう思うときもあるかもしれない。
でも確かに、あなたの形にしたい強い「想い」がどこかにきっとあるはずなんだ。
想いを形にしたいと思うとき。
自分を生きるように、どんな変化も、そしてどんな変わらない状況をも受け入れ、そして止まり待つことをあえてする。
そんな静と動、有と無が、静かな抑揚となって。
唯一無二のあなたの「想い」という形のないものを形作ってくれるのだと思うんだ。
「輪郭 / outline」
アルコールインクアート
artwork:70×70×4mm
2021
(2019年の記事を再編集しました)
sokokarakoso.hatenablog.com
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